観音崎観音像復元プロジェクト

行基上人による観音像の建立と観音崎の由来

天平十三年(西暦七四一年)の春、奈良の大仏建立の責任者でもあった行基上人がこの地を訪れました
当時、この海蝕洞窟に潜む白い大蛇が村々を襲い、時には船を沈める事もあったため、この沖はいつしか、「仏崎」「後家ケ崎」と呼ばれていました。
行基上人は、村人から、この地に伝わる話を聞き、大変心を痛め、一体の十一面観音像を彫り、これを洞窟に納めたところ、しだいに大蛇もおとなしくなり、漁師たちは安全に漁ができるようになりました。
村人達はこれを観音様のご利益と考え、お堂を建設し観音像を丁寧に祀るようになりました。
観音像は地元の村人や漁師だけでなく、今では浦賀水道を行き交う全ての船舶乗組員にも愛され、いつしか人々は、この地を観音像に守られた岬『観音崎』と呼ぶようになり、その名前は現在まで続いております。

観音崎にまつわる神話

 「古事記」と「日本書紀」にある日本武尊(倭建命)の東征伝説において、相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)に渡ったとされる場所がこの前に広がる海です。
 尊が上総に出航して間もなく暴風雨が船団を襲いました。これを海神の怒りと悟った尊の妃・弟橘姫は「私が海に入り海神の怒りを沈めましょう」と言い残し入水したところ、それまでの暴風雨が嘘のように鎮まり、尊一行は上総国に無事わたる事が叶い、尊は東征の使命を果たすことができました。

『無観音崎』二度失われた観音像


 神話の時代から幾百年、天平十三年(西暦七四一年)に行基上人によって彫られ、人々に愛されていた観音崎の観音像は、鎌倉時代、和田義盛氏と北条氏の合戦「和田義盛の乱(健保元年・西暦一二一三年)」の渦中、忽然と姿を消し、村人の必死の探索にも関わらず見つからず、百年の時が流れました。
 鎌倉時代末期、ある漁師が夜の観音崎の沖の海底から光が漏れていることに気がつき、翌朝、海底を探したところ、百年前に遺失した観音像があったそうです。
 江戸時代になると、観音像を納めたお堂の前に、船の安全を守る灯籠が築かれ、また、観音寺が建立されると、幕府から朱印地を与えられるなど、観音崎は大変賑わいました。
 明治十三年、明治政府は帝都防衛の要として観音崎に陸軍砲台建造を決定、観音寺と観音像は鴨居の亀崎に移転されましたが、人々は変わらず観音像を大切にし、明治、大正、昭和の時代を観音像と共に過ごしてきました。
 ところが、昭和六一年十一月、観音像を納めた鴨居の観音寺が火事となり、観音像もまた完全に焼失して、観音崎は「無」観音崎となってしまいました。

観音像復元プロジェクト発足

平成30年、観音崎に観音像を復元し『無』観音崎を本来の観音崎にするため、有志が立ち上がりプロジェクトが進められてきました。

観音像の復元は100%寄付で行われます。海を愛する方、観音崎を愛する方はぜひ、観音崎観音像の復元にご協力ください。

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